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2006年 12月 21日 戦前のアサヒカメラを発掘したよ




大掃除をしていたら、古いオタク系雑誌が何冊か出てきました。
戦前のアサヒカメラ3冊、昭和29年のアルスカメラ1冊、昭和33年のラジオ技術1冊。
ラジオ技術は義父のもの、アサヒカメラとアルスカメラは義祖父のものです。

義祖父は、東映太秦撮影所のカメラマンで、生涯に300本近くの映画を撮った、映画の黄金時代を生きた人ですが、根っからのカメラ好きで、ヒマさえあれば機材をいじりたおしているような人だったそうです。
本職のムービーカメラのみならずスチールカメラも大好きで、こうした雑誌を定期購読していたのだそうです。
ライカやローライフレックスを残してくれればよかったのですが、そうした小回りのきくものは散逸してしまい、残っているのはムービー用のアリフレックス、三脚、移動車などのツブシの効かない超重量級骨董品ばかりです。

今回発掘した雑誌は、どれも非常に面白く読めました。
順番に紹介していきます。
まずは、戦前のアサヒカメラから。
若い兵隊さんがタバコを持っている表紙のものが昭和15年、1940年発行のもの。
旋盤で砲弾を削っている表紙のものが昭和16年、1941年のもの。
メガネをかけたおっさん(東条英機首相)の表紙のものが昭和17年、1942年発行のもの。
この順番に薄くなり、昭和17年のものは厚さ3mmぐらいしかなく、雑誌というよりパンフレットかなにかのようです。
アサヒカメラはこのあと休刊してしまいます。






昭和15年のアサヒカメラです。
すでに十五年戦争は始まっていますが、日米開戦はまだの時期、にっこり笑った兵隊さんの表情も穏やかですね。
しかし、裏表紙には「写真防諜」の文字が見えます。
ゾルゲ事件が起こったのが昭和16年ですから、「防諜」という言葉には現実性があったわけです。






目次裏の一等席には、セイキ光学の広告が載っています。
セイキ光学とは、精機光学工業株式会社のこと、現在のキヤノンです。
「潜水艦ハ伊號、飛行機ハ九二式、カメラハKWANON、皆世界一」
のコピーは、昭和9年のアサヒカメラ6月号に掲載されました。
KWANON=カンノン=CANONとなったわけです。






月例投稿写真に載っていた猫写真。
アサヒカメラは硬派といわれますが、猫をモチーフにした写真の入選率はなかなか高いですね。
現在の月例でも猫写真の入選率は高いような気がします。
軍靴の音が次第に大きくなりつつある時代のカメラ雑誌の中で、こうした写真を見つけると、少し安心します。
個人としては優しい人も多くいたに違いありません。

月例写真のレベルは意外にしっかりしています。
上のような素朴な写真がある一方で、充分鑑賞に堪える重厚な作品も少なくありません。
モノクロ写真の上手さは、現代の写真家以上という人がたくさんいます。
写真表現というものは、60年やそこらでは本質部分までは変わらないようです。






レチックスというベスト判カメラの広告です。
メーカーは、旭光學工業株式會社。
おお、ペンタックスはこんなカメラを作っていたのか!
と思い、調べてみると、リコー・レチックスというカメラのようです。
リコーは、当時、理研光学工業株式会社を名乗っていたわけだし、ペンタックスの旭光学は昭和13年に旭光学工業株式会社となっていますから、訳が分かりません。
OEM関係や販売代理店のからみで、この当時のカメラの出自は複雑ですね。
広告を眺めていると、メーカーより販売代理店の名前の方が大きいような気もします。
キヤノンと近江屋写真用品、ミノルタと浅沼商会あたりは特に密接だったように思われます。






巻末の中古カメラ相場表です。
60年以上経った現在も、カメラ雑誌巻末の同じ位置に、カメラ店の相場表があるのには笑ってしまいます。
この相場表は松坂屋カメラのものです。
現在も、品川に松坂屋カメラというカメラ店がありますが、同じ店でしょうか。
名古屋・今池にも、創業100年を誇る松屋カメラという店がありますが、いずれにせよ、よく頑張っていると思います。

相場表に載っているのは、ほとんどが国産のカメラで、海外製品はほとんど見あたりません。
外国製カメラは、エルマー付ライカ320円、テッサー付エキザクタ450円と飛び抜けて高価です。
年配の方が、「舶来」と称してありがたがるのも無理はないと感じます。






日本犬の広告です。
巻末の広告欄にデカデカと載っています。
カメラや引き延ばし機の広告の間に、こういうものが登場するのはシュールですらあります。
「日本犬に限り米と肉は不要」
む~、戦局激しくなる中、こういうコピーが出てくるのでしょうか。






アサヒカメラ、昭和16年10月号です。
日本は、この2ヶ月後に真珠湾を攻撃し、日米開戦することになります。
戦争は不可避だとの世相が感じられる表紙です。

旋盤で砲弾を削っていますが、おそらく演出写真、つまりヤラセ写真でしょう。
あまりにも照明が決まりすぎています。
ヘタをすると、工場ですらないかもしれません。
スタジオに旋盤と砲弾を持ち込んで撮影をしている可能性すらあります。
砲弾などあまりにもピカピカで、ブリキのハリボテか?と思ってしまいます。
こういう嘘くさい写真が現代でもまかり通るのは、偉大なる首領様の国ぐらいのものです。
戦争というのは、こうした部分で表現を規制し、歪曲させてしまいます。






臨戦特集、「臨戦下における都会の素描」というキャプションが付いたフォトモンタージュが表紙になっています。
臨戦下といっても、まだ日米開戦はしていませんし、日本本土が空襲を受けているわけではないので、いたって穏やかな写真ばかりです。
写っている女性たちも、モンペに防空頭巾ではなく、大正モダンの面影を残す洋装です。
日米開戦前、おおかたの日本人は、神州不滅を信じ、戦争が興っても日常生活がどれほど激変するか、想像すらできなかったのだろうと思います。
何しろ、元寇以来、国土を他国の軍隊によって蹂躙されたことなど一度もなかったのですから。

右上の女性たちが触れているのはタイガー計算機でしょうか。
手回し式の、ガラガラチーンという大音響を発する計算機です。
これ、終戦後もしばらく使われたそうです。
光学メーカーの社史を読むと、昭和20年代には、数十人がかりでタイガー計算機を回し、半年かかってレンズの設計をしたなどと書いてあります。
この計算が、あまりにも煩雑で時間も人件費もかかることから、電子計算機の開発が行われたと聞きます。
国産電子計算機第一号であるFUJICがフジフィルムで作られたのは、そうした背景からといわれています。






臨戦特集といっても、そんな世相ですから、あまり日常生活に触れた記事はありません。
ドイツなど同盟国の先進技術の紹介が多いです。
上は超望遠カメラ。
おそらく、一眼レフでしょう。
エキザクタあたりの軍用カメラに1000mm以上の望遠レンズを付けていると思われます。
この写真には具体的なキャプションはありませんが、朝日新聞社有の反射式3000mmレンズなどというシロモノについて言及があるので、おそらく同程度以上の焦点距離があると思われます。
軍用機材というものは費用対効果無視のスペック至上主義で作られますから、とんでもないものが現れます。
米国がマンハッタン計画で作った原爆の値段は計算すると恐ろしい金額になるようです。
延べで数十万人の人が関わったといいますから。






誌上写真相談欄です。
三枚玉と四枚玉の優劣に関して質問している人がいます。
他にも、前玉繰り出しとヘリコイド繰り出しとどちらがシャープか?などという質問もあります。
純正レンズとタムロン、シグマとどっちがいい?と聞くのと似たようなものです。
現代のカメオタと何も変わりません。
こういうのを見ると、人間って50年や60年では何も変わらないのだな~と思います。^^






昭和17年2月のアサヒカメラです。
表紙は東条英機首相。
説明するまでもなく、日米開戦時の首相にして陸軍大臣。
陸軍大将にして超強硬主戦論者。
終戦後は東京裁判でA級戦犯となり死刑。
こういう人が朝日新聞の発行する写真雑誌の表紙にデカデカと載っていたわけです。

昭和17年2月号が発売されたのは、日米開戦して1~2ヶ月経った頃でしょうか。
連戦連勝で、国民総員躁状態の時代だったと思われます。
とはいえ、朝日新聞も無批判でこうした写真を載せたわけではないと思います。
心ある記者もいたことでしょう。
記事を書くに当たって、はかりしれない葛藤があったと思います。
しかし、結果としては翼賛メディアとなってしまう。
戦争というものは、言論の自由を著しく規制してしまう、表現の世界においても不幸な状態です。

裏表紙の小西六の広告も戦時色一色に変わっています。
こういうものを見ると、プロパガンダというものは、つくづく恐ろしいと思います。
政治的に特にアグレッシブであるとも思えないフィルムメーカーが、「屠れ!米英我等の敵だ」とあおるわけですから。
毎日こんなプロパガンダばかり目にしていれば、次第に人は判断停止状態になってしまいます。
もっとも、無思考で「英米=鬼畜」と判断するようにならなければ、戦場で人を殺すことはできないでしょうけど。






広告もこの号あたりから、戦時色が強くなっていきます。
軍艦、飛行機などのモチーフが増えます。
それにしても、横文字が左書きと右書きと混在しています。
読みにくくなかったのかね~と思います。






こんな記事も増えていきます。
この頃は、比較的食糧事情はよかったのでしょうね。
せいぜい、代用現像薬どまりです。






日米開戦後の号ですが、まだまだカメラの広告はたくさん載っています。
右上は理研光学のリコール。
「ついにドイツの水準に到達せるノイタールレンズ」というコピーが見えます。
これから察するに、昭和17年当時、国産レンズはドイツ製に比べると、まだまだという認識が一般的だったのだなあと想像できます。
ちなみに、理研光学というのは現在のリコーですから、このカメラ、RICOH GR Digitalの御先祖様ということになります。






広告に掲載されているカメラはブローニー判がほとんどで、135判はあまりありません。
ブローニーの中でも多いのが、6x4.5のセミ判です。
6x6の二眼レフも珍しくない程度にはありますが、量は多くありません。
そのほとんどが国産で、外国製の広告はほとんどありません。
左下の「ライカ修理」の広告が唯一見つけたライカの文字が入った広告です。
おそらく、ライカ、コンタックス、ローライフレックス、フォクトレンダーなどのカメラは目が飛び出るほど高価で、広告を出したところで売れはしなかったのだろうと思います。

というわけで、戦前アサヒカメラ篇はこれで終わりです。
次回は、昭和29年(1954年)のアルスカメラの紹介をしますね。
知っているカメラがだいぶ多くなるので面白いです。
by xylocopal2 | 2006-12-21 23:48 | Favorites
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