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2005年 08月 09日 今日の空 長崎・原爆忌



Canon EOS 10D / TAMRON SP AF11-18mm F4.5-5.6 Di II
ISO200, F11.0, 1/750sec., W/B:Auto


今日は60回目の長崎・原爆忌。
60年前の今日、昭和20年8月9日午前11時2分、長崎市に原子爆弾が落とされました。
当時、アメリカが保有していた3つ目の原爆でした。

1つ目は、1945年7月16日、アメリカ・ニューメキシコ州アラモゴードの砂漠で爆発した"Trinity"と呼ばれるインプロージョン型原爆。長崎型原爆の動作実証試験のために爆発させたものです。長崎型原爆はプルトニウム原爆であり、インプロージョン(爆縮)と呼ばれる核分裂開始プロセスによって爆発することになっていました。この方法は理論的には爆発するといわれていましたが、テスト当日まで、物理科学者さえも確実に爆発するかどうか自信がなかったといいます。

2つ目は、1945年8月6日、広島に落とされ、一瞬にして十数万人の生命を奪ったウラニウム/ガンバレル型原爆、通称リトルボーイ。当時、広島市内には34万人あまりの人が住んでいましたが、爆心地から1.2kmの範囲に住んでいた人は、8月6日中に50%が亡くなりました。1945年12月末までに14万人が亡くなったと推定されています。

3つ目が長崎に落とされたインプロージョン型原爆、通称ファットマンです。当時の長崎市の人口は24万人と推定されていますが、即死者は推定3万5千人、負傷6万人、最終的には7万人以上が亡くなりました。

兵器としての威力は、長崎型原爆の方が広島型原爆より若干強力でした。
広島型原爆の威力が15キロトン程度といわれるのに対し、長崎型原爆は21キロトンの威力がありました。
長崎型原爆の方が強力であったのにもかかわらず、死傷者が広島に比べ少なかったのは、爆心地が長崎市の中心部から北に3kmほどずれていたためです。
広島では、まさしく市街地のど真ん中に原爆が落とされたのです。

60年前の8月9日、北九州は曇りがちの天気であったらしく、原爆を積んだ爆撃機B29"ボックスカー"は雲のため、第一目標の北九州・小倉に爆撃照準を定められませんでした。
そのため、第二目標であった長崎に向かうも、こちらも雲が厚く、目視で長崎市中心部を確認できませんでした。
しかし、運命は長崎市にとって非情でした。
一瞬、雲の間から見えた長崎浦上天主堂付近にボックスカーは原爆を投下したのでした。
もし、長崎市中心部に原爆が落ちていたら、死傷者の数は広島より多くなっていただろうといわれています。

阪神淡路大震災の死者は5000人を超えています。近来まれに見る大災害でした。
豊中市に住む友人の父親も、この地震で命を失いました。
現在、想定されている首都圏直下型地震における死者は12000人と考えられています。
しかし、原爆による死者は一桁以上違います。

広島で14万人、長崎で7万人。
これが昭和20年末までに原爆によって亡くなった人々の数です。
現在までの累計死者数は、広島で26万人、長崎で7万5千人となっています。

これら死者の大半は一般市民でした。
軍人、軍属もいましたが、圧倒的多数は普通の市民でした。
即死を免れた人々も、満足な治療を受けることなく、真夏の暑さの中、水も飲めず、汗にまみれ、血にまみれ、漿液にまみれ、ウジにまみれ、苦しみながら死んでいったのです。
現在でいえば、熱傷レベルIIIの大火傷をした人ばかりでした。
熱傷レベルIIIといえば、現代の医学でも相当クリティカルな症状です。
そんな大火傷を負った人々が、真夏の焼け野原に何万人も苦しんでいたのです。

医療施設も倒壊し、医師も看護師も被爆していました。
生き残った医療関係者は自らの怪我や火傷をおして、負傷者の治療に当たりました。
しかし、医薬品も機材も不足している一方、負傷者の数は数万人です。できることは限られていました。
熱傷レベルIIIの大火傷に対して、食用油を塗るぐらいしかできなかったのです。

長崎型原爆の威力は21キロトンといわれますが、単にTNT火薬21000トン相当の爆発力が脅威なのではありません。
原爆が"核爆弾"として通常爆弾と峻別されるのは、その放射線、放射能の残忍さゆえです。
爆心地上空500mでは、直径200mほどの小型の太陽が数秒間輝いたといいますから、その高熱、爆風は猛烈に凄まじいものだったと思われます。
同時に、自然界には存在しない大量の放射線が一気に放出されました。
このときの放射線により、投下後60年経った今もなお、白血病、ガンなどの突然変異性疾患で苦しむ多くの人々がいます。
核の脅威は、被爆した個人が亡くなるまで続くのです。

プロトタイプをいきなり実戦で使うという暴挙。
使った米軍でさえ、結果を予測できないまま使ったのが原爆でした。
特に放射能に関してはほとんど知識がない状態でした。
それが人間に対し、いかに過酷な運命を背負わせるかを知らないままに使ったのが広島/長崎の原爆でした。
原爆、許すまじ。

第二次世界大戦末の原始的な原子爆弾でさえが、15~21キロトンの威力を持ち、30万人以上の人々の生命を奪ったのです。
現代のメガトン級(1000キロトン以上)の核弾頭であれば、1発が広島・長崎型原爆の50倍~2000倍の威力を持っています。
こんなものが大都市上空で爆発すれば、何が起こるか容易に想像がつきます。

原爆、許すまじ。
二度と核兵器が使われることがないよう、強く願ってやみません。


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推薦図書:"PHP文庫 原爆が落とされた日"
by xylocopal2 | 2005-08-09 21:20 | Sky
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